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美容オタクのひとりごと

一般人の美容オタク。時々K-POP

6年目の3.11 あの日から私は逃げ続けていた

2011.3.11
わたしは、宮城県岩沼市という仙台空港がある市内で暮らしていた。
わたしの家から田んぼ2つ挟むと東北自動車道があった。
深夜でも煌々と光る東北自動車道の案内板に、苛立ち、邪魔なもの。
そんな認識でいた。

でも、あの日。
わたしは、ちょうど仕事が休みで家にいた。
実家は自営だったので、姉以外の家族とともに。

「あれ、地震だ」
初めに気づいたのはわたしだった。
たまたま近くにいた父に告げると、揺れを感じないから気のせいだと笑われた。
まだ多分、きっと、父は笑っていた途中だったと思う。
聞いたことのない地鳴りと共に激しい揺れが、わたしたちを襲った。

あの1分間は断片的にしか覚えていない。
気がついたら、棚の中にテレビがはめ込まれている、その棚を背に必死に支えていた。
たった1分が数分に感じた。
激しい揺れに耐えきれず、わたしに掠りながら倒れるご仏壇を見た瞬間。
力が抜けた。

「ああ、死ぬのか。終わりだ」
何故かそう実感した。
走馬灯が見える。
全てがスローに見える。
よく聞く、そんなことは起こらず、ただ、全てを諦めた。
そこだけはよく覚えている。
揺れが収まり、父が深刻な顔でわたしを屋外に連れ出す。

「ラジオ番しながら休んどけ」
父はそう言いながら、車の後部座席に過呼吸を起こしかけているわたしを座らせた。
引き戸型の玄関は外れ、倒れかけていた。

ラジオからは長町駅前の道路が地割れしたことなどを繰り返し聞こえてきた。
アナウンサーが速報が入ってくる度に必死に読み上げていた。

津波です!津波です!!皆さん逃げてください!!」
アナウンサーの声が大きくなった。
その単語を理解出来なかった。
なにそれ?
いま?
情報が錯乱してるのかな、絶対嘘だ。
少なくとも、海につくまで、自転車で1時間以上かかる我が家までは来ないだろう。
そんな事をぼんやり思った。

仙台空港まで到達しました!皆さん逃げてください!」
一気に現実に引き戻された。
仙台空港は自転車でもそう遠くない。
やばい。

急いで父たちに声をかけ、家にいた家族4人で車に乗りこみ、逃げた。
しばらくして、ある駐車場に車を止めた。
4号線までは下りになっているが、それ以降は少し上り坂になる。海からも離れているし、東北自動車道があるからきっと、もう大丈夫。
父が緊張した顔で言うが、きっと誰も「大丈夫」なんて思っていなかった。
震える指でCメールを仙台にいる姉と数回やり取りしていると、地震発生からだいぶ経っていた。

「1度帰ろう」
父の言葉に賛成し、ゆっくりとしたスピードで我が家に向かう。
4号線に大きな地割れが出来ていた。
我が家は悲惨な状態だったが、無事だった。
土足で上がり、大量に家にあったローソクをかき集める。
父がプロパンガスのロックを解除し、お釜でご飯をありったけ炊く。
ローソクの光の中、無言でご飯を入るだけ詰め込み、残りはおにぎりにした。
何かあった時のためにと、寝袋や毛布、睡眠薬、充電がまだあるノートPC、USBケーブルなどを車に詰め込む。
わたしと母は、どうにか居住スペースが作れないか居間を片し、父と長女は玄関を直しに行った。
その間も大きな揺れが幾度も襲い、恐怖を消させてくれない。

「水音がする!逃げるぞ!」
父が大慌てで飛び込んできた。
玄関は外れたままだが、また車に乗りこむ。
今度は4号線を超えたところにある小学校へ向かった。
体育館には、何十人という人がぎゅう詰めでいたが、全員が横になれるスペースはまだあった。
冷たく硬い床に寝袋を引き、持ってきた1枚だけの毛布を寝袋の上に掛けた。

揺れる度、落ちてくるんではないかと不安になる程大きな音を立てる照明。
揉める被災者たちの声。
流せぬため、漂う悪臭。
大音量のラジオ。
想像もしなかった非日常。

姉の睡眠薬を飲み、GREEで呟き続けていたら、段々と眠気が来た。
早朝すぐに目が覚めた。
枕元に読売新聞の号外があった。
各家族ごとに配られたらしい。

2面を使い、写真が1枚載っていた。
忘れられない。
水に覆われたゆりあげの写真の中に、わたしが毎年合宿していたゆりあげの施設があった。
内容は覚えていないが、その写真だけは忘れられない。

2晩だけ体育館で寝起きして、夜明けから日暮れまで家を片した。
なんとか居住スペースを手に入れたので、早々に体育館からわたし達は家に帰った。
姉も1週間後ほどで帰宅した。

我が家の100m手前まで津波は来たらしい。
東北自動車道の反対側は悲惨としか言いようがなかった。
田んぼに刺さったり、屋根の上にある車。
ひび割れた道路。
見知らぬ町になっていた。
わたしは、邪魔だと思っていた東北自動車道に救われたのだ。

津波からは免れたが、我が家は大規模半壊と認定され、庭でテントで寝るように指示された。
まだ寒い3月。
テントで寝れるわけはなく、不安を抱えながら家で生活をした。

ライフラインが回復するまで心底大変だった。
まだ雪が舞う中、少しの食料を買うために数時間並んだり、水を貰う為に区役所に長時間並んだりした。

大変だったが、自分の手があかぎれているのに冷たい水に触らないで済むようにしてくれた自衛隊の方々や、同じ被災者なのに「これしかなくて、ごめんなさい」と言いながら1本を半分にしたカロリーメイトを分けてくれた親子など、たくさんの人の優しさにも支えられた。
見知らぬ者同士だが、今どこどこが開いている。ご飯はお鍋で炊くならこうしたら大丈夫。と情報交換しあった。
あの方々には感謝しきれないし、あの時のカロリーメイトは食べたことがないほど美味しかった。
しばらくして、ライフラインが回復した。
1ヶ月程経って、長町までの代行バスが出るようにもなった。
数週間で電車も開通した。
ビルは天井が落ちてたりボロボロだったし、大きな揺れは何度も来たが、日常が返ってきた。
これがわたしが経験した3.11。
悲惨なことはない。
家族も知り合いも無事だった。
それでも、大きくわたしの中に傷を残した。

わたしと次女は、仕事があるので仙台で新しい部屋を借りた。
ほかの3人は、両親の出身である関東に戻った。

2年間は仙台で暮らした。
地震への恐怖は薄れていた。
けれど、毎年3.11前後はブルーになった。
震災系の話や映像は一切見れないし、話せなかった。
たまたま見てしまった「やめてけれぇやめてけれぇ」と崩れ落ち、屋上の柵を掴みながら懇願するお年寄りの映像が気を抜くと浮かび、涙が出た。

恋愛面や仕事など色々と重なり、わたしは実家に移った。
結局、向き合うこともないまま逃げるんだ、という気持ちが常にあった。
6年間、わたしは、ずっと逃げ続けていた。
3.11前後になるとする、震災関連のドラマやドキュメンタリーを見れなかった。
「もう忘れさせてほしい」「静かに気持ちを整理する時間が欲しい」と毎年願っていた。
中途半端な被害しか受けていないのに。

6年目の今日。
初めて発生時刻に黙祷した。
様々な媒体で震災後、前を向き、進み続ける人たちを見た。
その人たちのインタビューを聞いた。
他県から移住し復興に尽力している人も、残り続け同じ場所で失った日常を取り戻そうとしている人もいた事を知った。

震災を感動ポルノとして扱いたくないし、扱って欲しくない。
だから、被災者をテーマにしたドラマは見たくない。
それは変わらない。
けれど、風化させないためにも、向き合うためにもこうした報道は必要だと思えた。
心を乱さず、震災直後の話を聞いたり、映像が見れるまでは、まだまだ時間が欲しい。
けれど、わたしの中の被災地は6年前で止まっていたんだと思う。
もう、逃げて見ないふりは止めようと決めた。
今のままでは復興に尽力している方々に失礼だと思う。

わたしに何が出来るかはわからない。
きっと出来ることは本当に些細な事だろう。
でも、何かは出来るはず。
それを探して、思い付いたら行動する。

いつの日か、被災地というだけの認識ではなくなってほしい。
大好きな故郷が、甚大な被害を受けた他県や他の地域が、あの静かな時間が過ぎていた日々が取り戻せることを願う。